ウマ娘と競馬と解釈

競馬について思うのが、実は物凄く需要があったのに放置されていた物として、既に結果が出ているレースに対する解釈だったのでは感

 競馬について思うのが、実は物凄く需要があったのに放置されていた物として、既に結果が出ているレースに対する"解釈"だったのでは感。

ギャンブル要素は常に未知に対する需要だけど、解釈は既知に対する需要で、実は既知に対して非常に大きな需要があったのでは、と。懐古とは既知にしか起こりえない。ユーザーがウマ娘に求めているものは、馬柱と着順を絵にすることでも、走る理由でも無い。「馬柱と着順の間にある物」である。

 極端な話、レース描写すらいらない。何故ならググれば過去のレース映像はある。レースに出走する理由も、馬主が決めたから以上の明快さは無いわけで。ただ一点、誰も分からないのが、馬柱から着順の間の数分間で。そんな物が分かるのは、文字通りの神くらいで、我々は正解が知りたいのでは無く、せめてこじつけとか解釈が欲しい訳である。それっぽく筋が通っている物が。

 数多いる予想屋が立てている物こそ、まさに馬柱から着順の予想なわけで、これがフルゲート18頭分全部分かれば解釈なんて要らないけど、大体ずれる。問題は、何故ずれたのか? 無論誰もそんな物分からない。

 競馬の界隈で最初にやったのが寺山修司だった。この馬柱と着順の予想のズレの解釈をせっせとやっていたのが。故人の死後40年間ほったらかしになってたから膨大な量の需要になっていたが、それを掘り返したのがウマ娘の2期までだった。3期は解釈もへったくれも無く、ただ馬柱と着順を絵にするどころか、そもそもフルゲートのうちの3頭分あるかないかを絵にしてるだけだったから、そりゃ皆がっかりするよね、と。

 ただ、既知への解釈とか、回顧に対して、寺山修司はかの有名な ふりむくな うしろには夢がない と言い残している。これはハイセイコーに対して詠んだ詩だけど、続けてこうも残している。

だが忘れようとしても
眼を閉じると
あのレースが見えてくる
耳をふさぐと
あの日の喝采の音が
聞こえてくるのだ

 希望という名の病、と故人は残しているけど、回顧の方が寧ろ逃れがたい病かもしれない。

comments powered by Disqus